
老若男女、いろんな人がいるように高齢者の方が必ずしも尊敬に値するわけではありません。むしろ、そういう「人格者」と呼べる方は残念ながら減少していると思います。
しかし、だからと言って全てを悲観する考え方には反対なんですよ。前述した通り、高齢者は「未来の自分」でもあるわけです。自分があと何十年と人生を経過すれば「お年寄り」になっているのですから、まずは「未来」を観察することが大切じゃないでしょうか?これだけ分母が多いわけですから、いろんな方のいろんな様子は十分に観ることが可能です。そして、自分なりに鑑みて生き方の方向を内面外面に渡り照らし合わせられるのです。
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ひょっとして今後における「ヒント」が隠されてないでしょうか?
「未来の自分」は確実に何かを語りかけているはずなんです。
そうは言っても「未来の自分」が何歳まで生きるのか分かりませんよね。ここで全ての人が高齢になるまで生きると決めつける事も適切ではないと思いますが、それでも「自分の未来図」を疎かにすべきではないでしょう。最も重要な思いは「与えられた生命」を最後まで有意義に使い切る事なんです。
もし今「余命一年」と宣告されたとしましょう。その時あなたは残り一年を「いい加減に過ごす」か「精一杯悔いなく過ごすか」のどちらを選択しますか?
私は迷いなく「後者」の考えです。先の事は決して見えるものではないですが、ラグビーのようにボールを繋いで繋いで、最後は誰かがトライを決めてくれたらいいと思う気持ちを持ち続けたいんです。だから無駄な生き方はしたくないんですよね。
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冒頭に今の高齢者の方に「人格者」と呼べる人が減少してる旨の事を書きましたけど、明らかに「自分の事しか考えないで他はどうでもいい」という主旨の方が増えているように思うのです。あくまで経験上で書かせてもらってますが、反面教師として「自分の未来図」に書き込んでいくしかないですね。つまり「明日の自分」というのは「自分」だけでなく、一人一人が繋いで繋がって悪い流れや風潮を変えていく事にあるんですよ。その為にも「個」としての「自分」をどう生きていくかに辿り着くんじゃないでしょうか?
私は子供の頃、近所に住む一人暮らしの「お婆さん」によく家に呼んでもらい茶菓子を御馳走になりました。その時にインスタントコーヒーを入れてもらった記憶が鮮明に残ってるんです。初めて飲んだインスタントコーヒーだったと思います。おそらく明治生まれの「お婆さん」だったはずですが、子供の頃のほのぼのとした思い出として残ってるんですよね。小さい事ですが、明日の自分への「ヒント」になるのではないでしょうか?
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